電車で足を開いて座る人の考察
通勤電車からおはようございます。
電車を頻繁に使う人なら誰もがイラッとしたことはある「足をこれでもかと広げる人」について語ります。
私は電車通勤なので足広げマンに会う確率はかなり高い。
特徴としては
①圧倒的に男性(一度だけ女性にも会ったことがある)
②人が隣に座ろうが関係ないという態度であり、感情を持つ(と推測)
③物理的に足が長い
ですかね。
女性は「足を閉じるのがマナー」とされる世の中なので、足を広げて座ることはめったにないかと思う。
ではなぜ男性も足を閉じるのがマナーではないのか?
閉じると股間がホットスポットになるから?(温度的に)
ああ、そういうの機能面でよくないんだよね。
本能的なものなのかな。
というか、マナー云々関係なく、足を開いていたら邪魔になるという概念がないのかな。
こういう人は、女性で膝が当たるくらい足をがばーっと開いていたら、会話のネタにしてしまうんだろうか。
あと隣に座る人と膝が触れ合って気持ち悪くないのだろうか。
男性のパーソナルスペースは、前後に長い楕円形だと聞いたことがある。それが作用している?
単に女性より男性は体格が大きいので肩が触れ合ってしまうのはある程度しょうがないことかなと、諦めてる部分はある。
足が長いのはうらやましい。
うらやましいがあんまり邪魔なら切ってやろうかという気持ちになる。
考察結果は「いいから内股の筋肉を使って足を閉じろ」です。
私たちはもう、だれかの価値観で生きる必要はない
この世は生きづらい!
20数年生きてていちばんの感想。
でも、今はそんなことなくなりました。
先人が作った価値観や社会のあり方がたくさんの人を不幸にしている。
私たちはもう、誰かの価値観で生きる必要はないのだ。
私はとにかく独善的で孤独を恐れる子供だった。
小学生の頃、放課後にだれかと遊ぶ予定がないことが耐えられなかった。
共働きの両親に、ゲームばかりしている兄。
家にいると自分がいかに暇で孤独だということを思い知らされた。
学校が終わってから、少しでも友人枠に入る同級生へ片っ端から電話をかけて遊ぶ約束を取り付けることもあった。
(今思えばとてつもない行動力)
ある日、誰に電話しても断られたことがあった。
そのとき私の心の中で鱗がぽろっと落ちるような感覚があった。
あれ?私何してるんだろう。
そんな私が今は孤独を謳歌している。
もちろん、世間が1人遊びに寛容になってきたのもあると思う。
あるとき自分に「なぜ自分が孤独であることを嫌なのか?」と聞いてみた。
いちばんの理由は、
寂しい人だと思われたくない。
なぜ?
哀れな目で見られたくない。
なぜ?
…?そういえばなんでだろう。
そこには、どうでもいい他人の目ばかりを気にしている自分がいた。
そうだ、そもそも、他人にどう思われても私には関係ないのでは?
このことに気づくまでに時間がかかった。
他人の目なんて関係ない!と思いつつどうしても気にしてしまう、それは今もまだ少し残っている。
孤独と寄り添って生きていくこと、他人の目を気にしないこと、ちょっと訓練が必要。
そして意思の力。他人の価値観に飲まれないという意思。自分の価値観を掘り下げて掘り下げて、何がしたいかを聞き出す。
自分とのヒアリング力。
これが楽しく生きる秘訣だと思いました。
どうせ無理だとは言わない、思わない。
やってもいないのに分からない。
やってみてダメだったら、そのとき後悔すればいい。
月並みな言葉ですが、
このことを咀嚼して受け入れたことで、生きるのがずーーーっと楽になりました。
自分は何が好きか?
何がやりたくないのか?
どうやって生きていきたいか?
今も模索中です。
でも、これだけは決まっている。
他人の価値観には左右されない。
自分の声を聞く。
孤独、たのしいです。