京都というディ◯ニーランド


京都の話題が出たので、今日はその話をします。



大学四年間、歴史学を学ぶために京都で過ごした私ですが、選んだ理由は以下の通り。


①京都への憧れ(J◯東海の罠)

②人が多い東京には住みたくなかった(家賃や物価も高い)

③地元や親元から離れたかった

④歴史を学ぶなら京都がいちばんいいのでは?という安易な考え

⑤他県の志望校に落ちた


いちばん強い理由はどう考えても⑤です。

それでも、日本史や寺社仏閣が好きな人にとって京都はディ◯ニーランドも同然。


私は志望校に落ちてディズ◯ーランドに住むチケット四年間分を手に入れた。


そこで初めて関西人及び京都人と触れ合うことになる。

そもそも私が通っていた学部はやたら京都人が少ない。

京都で生まれ育って歴史を学びたいという人はごく稀なのだ。

(生まれたときから身近にあると価値がわからない理論)


だから四年間も京都にいたにも関わらず、知人とよべる京都人は片手で数えられる程度。

残りは仕事で接したお客さんのみ。

当たった京都人の数があまりにも少ないため、私の京都人像はあまりにも偏見に満ちていることは念頭に置いておいてほしい。


私も大学二回生くらいまでは、京都人が「性格が悪い」「プライドが高い」論には「またまた〜」と思っていた。

そんなの、女は陰湿と同レベルの雑な括りだ。


ただ、私が出会った京都人はみな裏でこそこそ人に対する批評をするのだ。

それこそ遠回しだ。

ブスにはもれなく「かわいらしいなぁ、美人さんやなぁ」と言う。

本物の美人があまり褒められていないのを感じたとき、ゾッとした。


私がいちばん戦慄したのは、バイト先で髪を上げなければいけないのだけれど、ウッカリうなじの毛を剃り忘れたことがあった。


そのときに言われたのが

「◯◯ちゃんはほんまに美人さんやなぁ、うなじも綺麗やし」


言われた瞬間に全身の血が凍った。


そしてやっぱり「京都がいちばん」という意識が強い。

この間の戦争が応仁の乱だとか言うのも本当だった(半分冗談だとは思うが)


彼らの意識は、いまだ「お貴族さま」なのだ。



それでも私は京都が好きだった。

都会だけれど東京や大阪ほどゴミゴミしておらず、一風変わったお洒落な喫茶店や食べ物には事欠かない。

すぐに国宝、重文のお宝を見ることができる。

周辺の近畿圏にもすぐ行ける。

大学が多い=若い人が多い。活気がある。


京都人の過剰な自信も、意地の悪さも、観光客が多すぎてパンクしている交通網も、新旧の荘厳さが入り混じっている不思議な街の作りも、まるごと愛したかった。


京都のニュースが飛びかえば、いまだ自分の街のことように思う。

それでも私は、京都に住むことは二度とない。


「デ◯ズニーランド」は住むところではないから。